アドラー心理学②〈勇気づけの心理学〉カウンセラー勉強会にて
皆さん こんばんは! 不妊相談ひとすじ20年 宮崎市の漢方相談薬局・くすりの麗明堂、一般社団法人認定の子宝カウンセラー 薬剤師の金丸です。
昨夜から今朝にかけての台風による暴風雨は、宮崎に住んで台風に慣れている私にとっても結構ひどいものでした。
皆さんの地域は大丈夫でしたか?
宮崎県北部の延岡、日向地区は床上、床下浸水で大変だった方も多いことと思います。心からお見舞い申し上げます。
さて、今日は一昨日のブログに続いて、アドラー心理学の後半を書かせていただきます。
アドラーは、5歳の時に医師になる決心をしています。それは、いくつかの経験が強く影響しています。
一つは、弟のルドルフがジフテリアに罹っていた時、アドラーは感染することを全く考慮されずに同じ部屋で寝かされ、ある朝、目を覚ますと弟のルドルフはアドラーの隣で冷たくなっていたという経験。当時弟は1歳でした。
もう一つは、アドラー自身が幼少時代「くる病」であったことと、5歳の時に肺炎になって危うく死にかけるという経験からでした。
アドラーが目指した医師の姿は、実験や診断の正確さを強調する医師ではなく、目の前の患者を救う実践的医師でした。
(エリック・バーンが父の貧しいへの治療の影響を受けて、「大事なのは、まず患者を治すこと。理屈はその跡」と言ったのと相通じます。)
その後アドラーは1895年ウィーン大学の医学部を卒業して眼科医になり、2年後結婚を機に内科医として開業しています。
アドラーが精神科医になるきっかけとなったのが、精神分析の創始者であるジグムント・フロイトのサークルに1902年から参加したことでした。アドラーは精神分析学の中核メンバーとして活躍していましたが、フロイトの弟子ではありませんでした。対等の研究者でした。
アドラーは神経症の治療において、フロイトの『リビドー』ではなく、『劣等感』を神経症の根拠とするなど、学説上の対立から精神分析学会を退会する道を選びました。
日本では、フロイト、ユングの名前はよく知られていますが、アドラーもまた心理学界の三大巨頭の一人です。
≪アドラー名言集≫
・人間は追い込まれた時に、その人の特性が現れる。
(ストレス状態では、脚本行動が現れる)
・人間の行動は、すべて対人関係行動である。
健全な人は、自分にできることを考える。
不健全な人は、相手にさせることを考える。
(過去と他人は変えられない。変えられるの未来と自分だけ)
・人間は自分の運命の主人である。
(自分の運命は、自分が決めている)
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