心温まるお話 喜びをつくる③ ~ともに生きる~
皆さん こんばんは! 不妊相談ひとすじ20年 宮崎市の漢方相談薬局・くすりの麗明堂、一般社団法人認定の子宝カウンセラー 薬剤師の金丸です。
昨日のワールドカップサッカーは素晴らしいプレイを見せて頂きありがとうございました。
初戦の勝利を心からお祝い申し上げます。
日本の選手の皆さん、関係者の方々、本当にお疲れ様でした。格上の相手に対して勝利を挙げることは、本当に大変で、すごいことだと思います。しかし、それはしっかり練習をして、自分たちを信じてきた努力と気持ちが一つになったチームワークの勝利だと思います。
本当におめでとうございます!
さて、今日は月刊誌「れいろう」に書かれていた田中須美子さんの心温まるお話の第3話。
株式会社クラロン取締役会長 田中須美子さん
山形県米沢市の九里裁縫女学校(現・九里学園高校)卒。昭和31年、福島市で夫の善六氏と肌着製造の株式会社クラロンを創業。東京オリンピックを機にスポーツ時代の到来を見据え、体育着製造に転換。平成14年、善六氏の逝去に伴い、代表取締役社長に就任。26年から現職。
≪ 一期一会の人生に感謝して≫
・・・祈りの中に生きる・・・
記者)そうしたいろんな背景を持った方々が毎日イキイキと働ける環境をつくるうえで、どんなことを心掛けておられますか。
田中さん)特別なことはしておりませんが、いつも朝の出社の時と帰りの退社の時には、一人ひとりと言葉をかわして、心の通った挨拶ができるように心がけています。できるだけみんなとの密度を高くしたいということで、主人が会社のすぐ隣に家を建てました。
毎朝、「今日も一日みんなが元気に、事故なく働けますように」と祈るような気持ちで、みんなが朝来るのを待つのです。帰りは「お疲れさま」ではなく、今日も一日無事に働いてくれたことへの感謝を込めて、「今日もありがとうね」と声を掛けています。
大げさに感じられるかもしれませんが、戦争の時代を経験してきた主人や私には「社員が無事に帰っていく」「明日も元気な顔を見れる」ということは、決して当たり前ではないんです。
戦争末期の昭和19年、秋田に住んでいた私は毎朝、一合ほどの炒ったお米をもって家を出るのが習慣でした。いつ空襲に遭って家に帰れなくなったとしても、生き延びられるようにと、母が持たせてくれたものです。本当に生死が隣り合わせの毎日でした。
もしかしたら、朝、家を出たきり別れになるかもしれない、もう会えないかもしれない。
「今日も一日、無事に過ごせますように」
それは切実な願いでした。
今は平和になって戦争の心配はないとはいえ、突然の事故が起こられないとも限りません。自分だけじゃなくみんなが無事に健康なまま一日を終えられること。それは決して当たり前ではなく、尊いことだと思っています。
記者)クラロンを創業されたのが昭和31年です。まだ戦争の爪跡の残る当時は特にそうした思いが強くおありだったでしょうね。
田中さん)特に主人の思いですね。信心深い親のもとで育った主人は、命を救う職業に尊さを感じて一度は医師を志すものの、陸軍士官学校に進み、中隊長として胸を狙撃されますが、肌身に着けていた母からのお守りが盾となって銃弾を防ぎ、九死に一生を得る経験をしたそうです。
そのお守りを、主人は復員してから家の神棚に掲げ、毎日拝んでおりました。「自分は生かされた」という思いを強く持っていましたね。
部下もみな、母の祈りの中にあることを感じていたのでしょう。隊長として部下の命を守るとことを信念とし、安全行動を第一としたため、「この臆病もの」と上官から殴られたこともあったようです。
故郷の福島に復員してから、一度は官吏になりますが、公職追放で職を失い、福島市議なども経験した後、縁あってこのクラロンの事業を始めました。武士の商法でずっとやってきましたが、「従業員もみな家族」という思いだけは、主人も私も最初から持ち続けてきました。
≪この続き(最終回)は、また明日・・・≫
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