奇跡のリンゴ① ~いのちを活かして生きる~
皆さん こんばんは! 不妊相談ひとすじ20年 宮崎市の漢方相談薬局・漢方の麗明堂、一般社団法人認定の子宝カウンセラー 薬剤師の金丸です。
奇跡のりんご農家 木村秋則(きむらあきのり)さん
1949年、青森県中津軽郡生まれ。弘前実業高校卒。川崎市の会社に集団就職するが一年後帰郷し、実家のリンゴ栽培の農業に従事。78年頃より家族の体調を気遣い、無農薬・無肥料栽培に挑む。10年近く収穫ゼロになり、苦難の道を歩みながら、ついに完全無農薬・無肥料のリンゴ栽培に成功。NHKプロフェッショナルに出演同番組監修の『奇跡のリンゴ』がベストセラーになり、2013年には映画化された。現在、リンゴ栽培の傍ら、国内外で農業指導を続けている。著書に『リンゴが教えてくれたこと』『土の学校』他がある。
「無肥料・無農薬でリンゴ栽培を」・・・この思いをひたすら追求し、10年以上の極貧生活に耐え、周囲の反対や罵声にも屈しなかった木村秋則さん。青森・岩木山の麓の畑で、農薬も肥料も使わない自然栽培によって、最高に美味しい”奇跡のリンゴ”が誕生した。リンゴ畑で失敗を重ねながら学んだ自然の偉大さと、人間として大切なことは・・・。
岩木山の〝かまど消し”と呼ばれて
私は農家の次男として育ちましたが、サラリーマンを経て、22歳の時、婿養子としてリンゴ農家に入りました。当時は‶リンゴは農薬で育てる”と言われ、昆虫、カビ、細菌などからリンゴを守るために、年13回、特に夏場はリンゴ園が真っ白になるほど農薬を散布していました。しかし、女房が農薬に過敏な体質だったため、農薬を一度散布すると、目が見えなくなったり、顔や体のあちこちがかぶれ、ひどい時は寝込んでしまいました。青森のリンゴ農家は、文字通り体を張ってリンゴを作っていましたが、私は‶農薬を撒くのが当たり前”という風潮を何とかしなければ、と思いました。
ある日、立ち寄った書店で、汚してしまった本を買い取ったところ、農薬も肥料も使わない農業を紹介した本でした。その本に触発され、図書館に通って書物を読み漁り、有機肥料や減農薬栽培など、様々な試行錯誤を何年も繰り返し、28歳の時、無農薬栽培に挑戦しようと決心しました。反対すると思っていた義父や女房も、私を信じて応援してくれ、それから長く厳しい試練が始まりました。
農薬の代わりに人間が食べられるもので病害虫を防ごうと酢、塩、焼酎やニンニク、片栗粉、小麦粉等いいと聞いたものを全部やりつくしました。しかし、どんどん木の状況は悪くなっていき、リンゴの収穫がなくなって収入が途絶え、青森の言葉で‶かまど消し”(破産者の意)と呼ばれ、岩木一の貧乏と言われるほどになりました。当時小学6年の長女が、「お父さんの仕事」という題の作文で「私はお父さんの作ったリンゴを一つも食べたことがありません」と書いていて、これには心が痛みました。生活費を稼ごうと長距離トラックの運転手をしたり、冬場は北海道へ木を切り出す出稼ぎにも行きましたが、借金を返すだけで精いっぱいで、家族を支えるのは困難でした。
リンゴ畑で農薬散布を止めてみると害虫が一斉にリンゴの木に襲いかかりました。一家4人で毎日、朝から晩まで虫とりをしましたが、虫は後から後からわいてきます。さらに病原菌にもやられ、葉が全部落ちてしまいました。その状態で3年が過ぎ、蓄えは底をつき、トラックも売り払い、電話代も払えず止められてしまいました。三人の娘たちは靴下にツギをあて、短い鉛筆をセロテープでつないで使っていました。
害虫が自分の畑に来るのではと、周りのリンゴ農園からは冷たい目で見られ、友人たちは口をそろえて、「家族のことを考えろ」と忠告しましたが、私は耳を貸しませんでした。六年目になると、リンゴの木々は根っこまで弱り、グラグラしていました。私は自分の生活も苦しいけれどそれは生活させてくれたリンゴを自分が苦しめているからだと思いました 。そして、800本のリンゴの木を一本ずつ回って、「ムリさせてごめんね。花も実もつけなくていいから、どうか枯れないで耐えてくれ」と、あやまり続けました。周りの畑の人たちは私が狂ったと思ったことでしょう。
≪続きはまた後日・・・≫
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