2015年7月のコラム
皆さんは、新美南吉さん(1913~1943)が昭和7年に発表した『ごん狐』のお話をご存知でしょうか?私たちの年代の方は、覚えていらっしゃるかと思いますが、このお話は小学校4年生の国語の教科書に長年取り上げられており、まさに国民的な童話といえます。
ごん狐のあらすじは、一人ぼっちの子狐「ごん」は、いつも辺りの村へ出てきては、いたずらばかりしていました。あるとき、村人の兵十(ひょうじゅう)が母親を 亡くして自分と同じ一人ぼっちになったことを知ると、ごんは前に兵十が母親のために 捕まえたうなぎを取ってきてしまったことを後悔して、栗や松茸をこっそり差し入れるようになります。そのことを知らない兵十は、「きっとそれは神様のしわざだ」という友人の言葉を信じているようです。そのやりとりを聞いてしまったごんは、面白くない気持ちになります。
ごんはその次の日も兵十の家へ差し入れに行くのですが、ごんの姿をみた兵十は、いたずらをしに来たのだと思い込み、火縄銃で撃ってしまいます。
最後のシーンで、兵十は栗や松茸をくれたのがごんであったことに気づいて、こう言います。
「ごん、おまえだったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、頷きました。
私は小学生の頃、ごん狐のお話を初めて読んだ時に、ごんが可哀想になって涙が込み上げてきたのを覚えています。その時は、ごんのけな気な気持ちをもっと早く兵十に気付いて欲しかったのですが、この歳になってもう一度このお話を読んでみると、ごんは、自分の気持ちを兵十に気付いて欲しくて差し入れを続けていたのかな… と思うようにもなりました。
私たちが「よいこと」をするときには、元々親切心や思いやりの気持ちから始めたことであったとしても、心のどこかには、
〝このことを誰かにわかってもらいたい”という思いも存在するのものです。それは自然な感情であるとも言えます。しかし、
誰かに対して「よいこと」する場合、ひたすら相手の幸せを願って、日ごろ自分もいろいろな方のお世話になっていることに感謝するなど、相手を思う真心を添えて行えば、たとえ感謝されることがなかったとしても、決して相手を責めることはないのです。 今回、改めて『ごん狐』のお話から学ばせてもらいました。
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