~母を憶う~
皆さん おはようございます! 不妊相談ひとすじ20年 宮崎市の漢方相談薬局・漢方の麗明堂、一般社団法人認定の子宝カウンセラー 薬剤師の金丸です。
6月に入って初めての日曜日は、梅雨の雨空ですね。
今日は、朝8時過ぎに麗明堂を出発して、麗明堂のお客さん21名とバスに乗って熊本に向かいます。
筑後産クロレラをご愛用の皆さんと一緒に『虹フェスティバル』に参加してきます!
講演は、食品の裏側の本を書かれた安部司さんと、食エコロジストの波多野毅さん、そしてピアニスト弓削田健介さんのコンサートです。その様子については、後日紹介したいと思います。
さて、今日は、月刊誌『れいろう』に載っていた、ニッセイ会長 中村秀信さんの「母を憶う」をご紹介したいと思います。とても感動したお話でしたので、ぜひお読みくださいませ。
中村秀信さん 昭和28年、長崎県生まれ。法政大学経済学部経済学科卒業。55年、(株)ニッセイに入社。常務取締役を歴任し、平成30年より会長。社会福祉法人いずみ「いずみ松本町保育園」理事長も務める。
母の後ろ姿をお手本として
母は、寡黙で辛抱強い人でした。私が五人きょうだいの末っ子として生まれたころから、だんだん我が家の生活が厳しくなった原因は、父にありました。
父はとても器用な人で、大工や左官、植木職人、板前などを経験し、大工の時は一人で自宅を建てるほどの腕前でした。しかし、中学生の頃のケガが原因で耳が聞こえづらく、人とうまく会話をすることができませんでした。周りからは器用貧乏と陰口をたたかれ、言葉が聞こえないためにストレスがたまり、外で飲んでは自宅に帰ると暴れて、手が付けられないような父でした。
そんな父は、私が小学校二年生の時に亡くなり、母は五人の子供を育てるために、日雇いで働きだしました。最初は、一日働いていただいた百円札一枚で夕食のおかずを買って帰るという、ギリギリの生活を送っていました。母は子供五人と寝込んでいる義母の面倒を見る毎日でした。朝早くにみんなの食事をつくるとすぐに仕事に行き、家に帰ると夕食づくり。夜は川で洗濯をしてから銭湯に行き、家計簿をつけて寝るという生活で、子供たちが最低でも中学校は卒業できるようにと、休まず働きました。毎日がこの繰り返し。私が中学を卒業して家を出るまでに交わしたのは、「ただいま!」「お帰り!」の挨拶ぐらいで、長く会話をした覚えがありません。しかし今でも、川に洗濯に行くときの小さくて少し背中の曲がった母の後ろ姿が目に焼き付いています。
私が上京して一年後の二十歳の時、母が「背中が痛い」というので病院で検査をすると、余命一年の末期の胃がんでした。最後の一年間は兵庫県神戸市の兄のところで暮らし、身体が痛くても掃除の手伝いをしていたそうです。また、壊れそうな眼鏡をつくり替えるために視力検査をすると、視力が弱くてほとんど見えていない状況でした。
母の人生は、同じ長崎県出身の歌手・美輪明宏さんの「ヨイトマケの唄」の歌詞を思い出すような、艱難辛苦(かんなんしんく)の連続でした。
私が65歳の今まで働けたのも、辛抱強い母のおかげだと感謝しております。
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